Memento mori
Teng jing-official part.2

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MONSTER(6.1) Ourselves(保身)

「私の罪は従順だったことだ」




イスラエルにおけるアイヒマン裁判の過程で描き出されたアイヒマンの人間像は、大虐殺を行った人格異常者などではなく、真摯に「職務」に励む、一介の平凡で小心な公務員の姿だった。
「アイヒマンはじめ多くの戦争犯罪を犯したナチス戦犯たちは、そもそも特殊な人物であったのか?  それとも、家族の誕生日に花束を贈るような平凡な愛情を持つ普通の市民であっても、一定の条件下では、誰でもあのような残虐行為を犯すものなのか?」という疑問が提起された。

アメリカ、イェール大学の心理学者、スタンリー・ミルグラム(Stanley Milgram)は、上記の命題にある種の回答を得るべく、権威者の指示に従う人間の心理状況を実験した。1963年にアメリカの社会心理学会誌『Journal of Abnormal and Social Psychology』に投稿された、この実験は、ミルグラム実験或いはアイヒマン・テストと呼ばれている。


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実験協力者には、この実験が参加者を「生徒」役と「教師」役に分けて行う、学習における罰の効果を測定するものだと説明された。各実験協力者はくじ引きで「生徒」役と「教師」役に分けるが、被験者が確実に「教師役」をさせるようにしていた。
200px-Milgram_Experiment_v2.jpg


被験者たちはあらかじめ「体験」として45ボルトの電気ショックを受け、「生徒」の受ける痛みを体験させられる。次に「教師」と「生徒」は別の部屋に分けられ、インターフォンを通じてお互いの声のみが聞こえる状況下に置かれる。そしてこの実験の肝とも言うべき部分は、「教師」である被験者には物理的なプレッシャー(武器で脅される等)は全くないことである。

「教師」はまず二つの対になる単語リストを読み上げ、「生徒」が正解すると、「教師」は次の単語リストに移る。「生徒」が間違えると、「教師」は「生徒」に電気ショックを流すよう指示を受ける。また電圧は最初は45ボルトで、「生徒」が一問間違えるごとに15ボルトずつ電圧の強さを上げていくよう指示される。

ここで、被験者は「生徒」に電圧が付加されていると信じ込まされるが、実際には電圧は付加されていない。しかし各電圧の強さに応じ、あらかじめ録音された「『生徒』が苦痛を訴える声」がインターフォンから流される。電圧をあげるにつれて段々苦痛のアクションが大きくなる。また電気ショックの機械の前面には、200ボルトのところに「非常に強い」、375ボルトのところに「危険」などと表示されている。

<インターフォンから流れる音声>
75ボルトになると、不快感をつぶやく。
120ボルトになると、大声で苦痛を訴える
135ボルトになると、うめき声をあげる
150ボルトになると、絶叫する。
180ボルトになると、「痛くてたまらない」と叫ぶ。
270ボルトになると、苦悶の金切声を上げる。
300ボルトになると、壁を叩いて実験中止を求める。
315ボルトになると、壁を叩いて実験を降りると叫ぶ。
330ボルト~    無反応になる。

被験者が実験の続行を拒否しようとする意思を示した場合、白衣を着た権威のある博士らしき男が感情を全く乱さない超然とした態度で以下のように通告する。
A.続行して ください。
B.この実験は、あなたに続行して いただかなくては。
C.あなたに続行して いただく事が絶対に必要なのです。
D.迷うことはありません、あなたは続けるべき です。

四度目の通告がなされた後も、依然として被験者が実験の中止を希望した場合、その時点で実験は中止された。さもなくば、最大ボルト数として設定されていた450ボルトの電圧(通常は死に至る危険があるとされる電圧)が三度続けて流されるまで実験は続けられる。



実験の結果
教授陣の予想に反して、実験結果は、なんと被験者40人中25人(統計上62.5%)が用意されていた最大V数である450ボルトまでもスイッチを入れた、というものだった。

中には電圧を付加した後「生徒」の絶叫が響き渡ると、緊張の余り引きつった笑い声を出す者もいた。全ての被験者は途中で実験に疑問を抱き、中には135ボルトで実験の意図自体を疑いだした者もいた。何人かの被験者は実験の中止を希望して管理者に申し出て、「この実験のために自分たちに支払われている金額を全額返金してもいい」という意思を表明した者もいた。しかし、権威のある博士らしき男の強い進言によって一切責任を負わないということを確認した上で実験を継続しており、300ボルトに達する前に実験を中止した者は一人もいなかった。

「教師」と「生徒」が同じ部屋にさせた場合や「教師」が「生徒」の体に直接触れさせることで電圧の罰を与えて従わせる場合など「先生」の目の前で「生徒」が苦しむ姿を見せた実験も行われたが、それでも前者は40人中16人(統計上40%)・後者は40人中12人(統計上30%)が用意されていた最大V数である450ボルトまでスイッチを入れたという結果になった。


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何の罪もない人を死に追いやる行動を、ごく普通の人が、自らの手でしてしまった。武器で脅されたり、大人数に脅迫されたわけでもなく。

「ヒトは、ある条件が整うと、自分が想像しているよりずっと簡単に服従してしまう」
「他人の生命や苦痛は、自己の保身や利益ほどには重視されない」






PCの電源を閉じて、黒いモニタに映るその顔の持ち主は、情況しだいでは容易に何かに服従し、尊い人命をボタン一つで奪い得る。
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MONSTER(6) Adolf Otto Eichmann(忠誠、従順)

After 66 years(2011)
「ノーリスクで給料をもらおうとする従業員は犬。会社に飼われている畜生なんです。それ以上でもそれ以下でも無い。」

「経営者と従業員は決して平等じゃない、背負っているものが違うんです。経営者の庇護の下にあるうちは、居酒屋の中でのみ吼えなさい。匿名掲示板の中で垂れ流しなさい。従業員の夢や希望を叩き潰すような理不尽な行為こそ、経営者の仕事です。企業の存続のためなら貴方達従業員は何匹か殺され、残りは給料を減らされるんです。清濁併せ呑んで企業を存続させる、これが経営者の誠実です。」



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Adolf Otto Eichmann(アドルフ・オットー・アイヒマン)

AdolfEichmann.jpg

■生い立ち
Adolf Otto Eichmann(アドルフ・オットー・アイヒマン)は、1906年3月19日にドイツ帝国西部ラインラントの都市ゾーリンゲンに生まれた。

■SS(親衛隊)勤務
1932年4月1日にオーストリア・ナチ党に入党後、親衛隊に入隊している(オーストリアナチ党員番号889,895、オーストリアSS隊員番号45,326)

1934年9月、当時親衛隊伍長(SS-Scharführer)であったアイヒマンは、SD(親衛隊情報部)に応募し、SD長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将により採用される。SDII/111課(フリーメーソン担当課)の補助員となった。同僚のディーター・ヴィスリツェニーによるとこの頃からアイヒマンは記録や組織的な整理といった体系的な作業を好んだという。しかし数か月で人事異動となり、レオポルト・フォン・ミルデンシュタイン親衛隊少尉(de:Leopold von Mildenstein)が課長をしていたII/112課(ユダヤ人担当課)へ異動した。以降一貫してアイヒマンはユダヤ人問題に携わることとなる。

1941年8月から9月頃にラインハルト・ハイドリヒの口から総統アドルフ・ヒトラーの命令によりヨーロッパのユダヤ人がすべて絶滅させられることになったのを知らされたという。さらにこの時、ハイドリヒからポーランド総督府領ルブリンの親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニクの指揮下で行われているユダヤ人虐殺活動を視察することを命じられ、ルブリンへ赴き、トレブリンカ(後にここにトレブリンカ強制収容所が置かれる)でガス殺を行う建物を視察した。

■ユダヤ人の最終解決
1942年1月20日にハイドリヒの命令で関係各省庁の次官級担当者がベルリン高級住宅地に集まった「ヴァンゼー会議」に議事録作成担当として出席し、ユダヤ人を絶滅収容所へ移送して絶滅させる「ユダヤ人問題の最終解決」(=虐殺)政策の決定に関与した。この会議後、アイヒマンは、ゲシュタポ・ユダヤ人課課長としてヨーロッパ各地からユダヤ人をポーランドの絶滅収容所へ列車輸送する最高責任者となる。

1942年3月から絶滅収容所への移送が始まったが、その移送プロジェクトの中枢こそがアドルフ・アイヒマンであった。総力戦体制が強まり、一台でも多くの車両を戦線に動員したい状況の中でも交通省と折衝して輸送列車を確保し、ユダヤ人の移送に努めた。続く2年間にアドルフは「500万人ものユダヤ人を列車で運んだ」と自慢するように、任務を着実に遂行した。

アイヒマンの実績は注目され、1944年3月には計画の捗らないハンガリーに派遣される。彼は直ちにユダヤ人の移送に着手し、40万人ものユダヤ系ハンガリー人を列車輸送してアウシュヴィッツのガス室に送った。1945年にドイツの敗色が濃くなると、親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーはユダヤ人虐殺の停止を命令したが、アイヒマンはそれに従わずハンガリーで任務を続けた。彼は更に武装親衛隊の予備役として委任させられていたため、戦闘命令を回避するために自らの任務を継続していた。

■敗北と逃亡
第二次世界大戦終結後、アイヒマンは進駐してきたアメリカ軍によって拘束される。しかしながら偽名を用いて復員軍人であったと主張し、捕虜収容所から逃亡することに成功する。その頃アイヒマンはリカルド・クレメント(Ricardo Klement)の偽名で職業を技術者とし、国際赤十字委員会から渡航証(難民に対して人道上発行されるパスポートに代わる文書)の発給を受け、同年7月15日にはイタリアから船でアルゼンチンのブエノスアイレスに上陸した。

その後約10年にわたって工員からウサギ飼育農家まで様々な職に就き、家族を呼び寄せ新生活を送った。当時のアルゼンチンは親ナチスのファン・ペロン政権の下、元ナチス党員を中心としたドイツ人の主な逃亡先となっていた。

■拘禁及び裁判
1957年、西ドイツのユダヤ人検事、フリッツ・バウアーが、イスラエル諜報特務庁(モサッド)にアイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているという情報を提供した。2年に渡る入念な調査の末、モサッドはついにアイヒマンの居場所を見つけ出した。

1960年5月11日、バスから下車して自宅へ帰る道中マルキンらに拉致され、隠れ家に監禁された。尾行中のモサッドらが彼をアイヒマンであると最終的に確信したのは、彼が結婚記念日に妻へ贈る花束を買ったことであった。拉致され隠れ家へ運ばれる車中で、当初自らがアイヒマンであることを否定したが、少し経つとあっさり認めたという。

1961年4月11日、アイヒマンの裁判がイスラエルのエルサレムにて始まった。「人道に対する犯罪」、「ユダヤ人に対する犯罪」および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴され、その裁判は国際的センセーションと同様に巨大な国際的な論争も引き起こした。275時間にわたって予備尋問を行われた。

1962年6月1日未明にラムラ刑務所で絞首刑に処された。遺体は焼却され遺灰は地中海に撒かれている。処刑前に「最後に何か望みが無いか」と言われ、「ユダヤ教徒になる」と答えた。何故かとたずねると「これでまた一人ユダヤ人を殺せる」と返答をしたと言われる。





・「ナチスによるユダヤ人迫害について「大変遺憾に」思うが、自身の行為については「命令に従っただけ」」(公判時)
「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」(公判時)
・「金貨など不要なのだ。金貨なら自分でも持っている。欲しいのは命令だ。これからどう進展するのか知りたいのに。」(敗戦直前エルンスト・カルテンブルンナーに面会を拒否され、その副官から金貨を渡された際に語った言葉)
・「戦争中には、たった一つしか責任は問われません。命令に従う責任ということです。もし命令に背けば軍法会議にかけられます。そういう中で命令に従う以外には何もできなかったし、自らの誓いによっても縛られていたのです。」(イスラエル警察の尋問で)



「私の罪は従順だったことだ。」

MONSTER(5) Alexander "Sawney" Bean(人間性)

ソニー・ビーンはスコットランドのイースト・ロージアンで16世紀に生まれたとされる。怠惰で粗暴な性格であり、労働を嫌って家を飛び出した。そして、性悪な女と知り合ってギャロウェイ(ブリテン島西岸のノース海峡に面した半島。現サウス・エアシャイア)付近にあるバナーン・ヘッドの海岸の洞窟に暮らす様になった。洞窟の入口は、満潮時に海面下に隠れるので人目に触れ難かった。日々の生活の糧を得る為に、2人で共謀して、通り掛かる旅人を襲っては現金を奪い、しかも自分達の存在や犯行が露見しない様、必ず相手を殺したという。この様にして得た現金で食料品等を購入していたが、充分ではなく、飢えに迫られた彼等は、殺した人間の肉を食べる事を始めたとされる。

またソニー・ビーンと妻は共に性欲が旺盛であったとされ、男8人、女6人の子供を設け、更にその子供達は、近親相姦を繰り返し男18人、女14人を産んだという。最終的にビーン一族は48人の大家族となった(50人とする意見もあり)。子供達は通常の教育は全く受けず、言葉もたどたどしかったが、旅人を襲って取り逃がす事なく殺害し、解体して食糧に加工する技術を学び、強力な殺人集団を形成した。彼等は専ら人肉を食料としたという。

ビーン一族は優れたチームワークで行動し、決してその犯行や存在を世間に知られる事はなかった。襲う相手の人数は必ず5人以下とし、それ以上の集団には手を出さなかった。襲撃する場合は、相手がどの方向に逃げても対処できる様仲間を配置した。その為ビーン一族に襲われて生還した者はなく、ギャロウェイの海岸一帯で人間の失踪事件が多発する事が知られる様になっても、誰も真相を掴めなかった。行方を絶った旅人が最後に宿泊した旅籠の経営者や素行不良者、犯罪歴のある者等が治安当局に逮捕され、無実の罪で処刑されたが、もちろん失踪事件は跡を絶たなかった。

彼らに殺され、食べられた人数は、30から400人とも言われ、或いは1,000人以上と言う説もあり、正確な人数は把握されていない。

ビーン一族は、25年間に渡って犯行を続けたが、ある時、1頭の馬に乗って通り掛かった夫婦を襲って失敗し、妻は捕らえて殺す事が出来たが、夫は馬に乗って逃走、また大人数の集団が接近して来たので、諦めて撤退せざるを得なかった。逃げ延びた男はグラスゴーの役所に訴え、ついにその凶行が露見した。そしてスコットランド国王に報告され、事件を重く見た国王は、自ら400人の兵を率いて追捕に赴いた。ビーン一族の洞窟は人間には見付け難かったが、犬が臭いを嗅ぎつけ、一族は全員が捕縛された。洞窟内からは、盗品に混じって夥しい人肉や人骨が発見され、ビーン達の犯行が明るみに出た。

ビーン一族の所業は極めて邪悪な者とされ、裁判は行なわれず、全員が極刑に処せられた。男は両腕両脚を切断されて失血死する迄放置され、女はその様子を見せられた後に火炙りになったという事である。


表情から苦痛は読み取れたが、ビーン一家の誰ひとりとして後悔の色は示さなかったという。

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暗い目、ぞっとするほどの腐臭。人間の脂でテカった、筋張った筋肉質な体。
そして、決して満たされない餓え。

飽くなき欲望は、関わったものを全て暗い地獄の穴に引きずり込む。


近親相姦や人肉食といった禁忌を容易に乗り越え、人間を襲い続ける。

それでも、彼らは人間なんです。なぜなら、殺人、食人行為を生命維持に必要最低限の量以上にヤっているから。

無論、最初は餓えに駆られての手段だったのでしょう。しかし、やがて味を覚え、快楽を覚え、「狩り」そのものが手段から目的へと昇格していったのだと推測できます。食料を得るためではなく、自身の欲望を満たすために人間を襲い、殺し、喰う。彼らの行為そのものよりも、そこから垣間見える人間性の方に強い嫌悪感を覚えるのは私だけでしょうか。


MONSTERに相応しい、邪悪な、人間です。

MONSTER(4) Rwandan Genocide(暴発)

ノリ家三男がルワンダに到着して何れかの虐殺記念センターに行ったとの話を聞いたため、1994年に起きたルワンダにおけるジェノサイドの纏めを行う。

--------------------フツ(Hutu)族ツチ(Tutsi)

フツツチは元々は同じ言語を使い、農耕民族であるか遊牧民族であるかという違いでしかなく、貧富の差がそれぞれの民族を形成するなど両者の境界は曖昧であった。しかし、ベルギー人をはじめとする白人による植民地支配がはじまると、鼻の大きさや肌の色などを基準に人為的な境界が作られた。ツチは「高貴(ハム系あるいはナイル系)」であり、対するフツなどは「野蛮」であるという神話・人種概念を流布(ハム仮説)し、ツチフツは大きく対立し始めた。IDカードの導入により統治の固定化が図られ、フツはあらゆる面で差別を受けた。

1962年の独立の前にツチとベルギー当局との関係が悪化し、ベルギー当局は国連からの関係改善の勧告を無視して社会革命としてフツによる体制転覆を支援した。この結果、ツチは報復を恐れて近隣諸国、特にウガンダに脱出した。

1973年に、フツのジュベナール・ハビャリマナがクーデターを起こした。彼は当初、ツチに対する和解策をとったが、やがて反ツチの傾向を強めた。かくして、ウガンダに逃れたツチ系難民がルワンダ愛国戦線 (英:RPF、仏:FPR) を組織して、ウガンダを拠点に、フツのハビャリマナ政権に対する反政府運動を活発化させることになる。RPFは、1990年10月には、ルワンダ北部に侵攻し、内戦が勃発した。

1993年8月に、ルワンダ愛国戦線の猛攻と国際世論の高まりにより、アルーシャ協定が結ばれ、和平合意に至ったものの、1994年4月6日に、フツのジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領とを乗せた飛行機が、何者か(「フツの過激派による犯行」と「ツチの犯行」の二説有り)に撃墜されたことに端を発して、フツによるツチの大量虐殺(ジェノサイド)が始まった。

--------------------ルワンダ現代史

1960年代から1980年代初頭にかけて、ルワンダは持続的な成長を遂げ続けたアフリカの優等国であった。しかしながら、1980年代後半には主要貿易品目であったコーヒーの著しい値崩れなどを受け経済状況は大きく悪化し、さらに1990年に行われた国際通貨基金の構造調整プログラム(en:Enhanced Structural Adjustment Facility:ESAF)により社会政策の衰退、公共料金の値上げを招き、状況の一層の悪化を導いた。その結果、失業率の悪化や社会格差による貧困などの諸問題が噴出し、特に若者を中心として不満を募らせるようになった。

また、ルワンダは国土の比較的狭い国であったが、平均標高の高い土地のために温暖気候に属しており人の居住に適し、土地が肥沃で自然環境も豊かなことで知られていた。しかし、1948年に180万人であった人口が1992年には四倍を超える750万人にまで増加し、アフリカで最も人口密度の高い国となり、農地などの土地不足の問題が発生するようになった。人口の増加により食料不足の問題が生じ、国民の6人に1人が飢えに苦しむ状況となった。国民の多くは数ヘクタールにも満たない狭い農地で生産性の低い農業に頼った自給自足の生活をしており、市場に売却する余剰食料を十分に生産できなかった。そのため日頃から生活の糧となる土地をめぐって争いが頻発していた。

--------------------虐殺

ルワンダ虐殺は非常に組織立った形で行われたことが明らかとなっている。ルワンダ国内では、近所ごとに様々な任務を行う代表者が選出されたほか、民兵の組織化が全国的に行われ、民兵の数は10家族あたり1人となる3万人にまで達していた。一部の民兵らは、書類申請によってAK-47アサルトライフルを入手でき、手榴弾などの場合は書類申請すら必要なく容易に入手が可能であった。

また、ルワンダ虐殺においてニュースメディアは重要な役割を果たしたとされる。具体的には、新聞や雑誌といった地域の活字メディアやラジオなどが殺戮を煽る一方で、国際的なメディアはこれを無視するか、事件背景の認識を大きく誤った報道を行った。ルワンダ国内メディアは、まず活字メディアがツチに対するヘイトスピーチを行い、その後にラジオが過激派フツを煽り続けたと考えられている。反ツチのヘイトスピーチは「模範的と言えるほどに組織立てられていた」という。ツチに対する個人的対応や社会的対応、フツツチをいかに扱うべきかを論じた文章として悪名高いフツの十戒や、一般大衆の煽動を目的とした大規模戦略として、ルワンダ愛国戦線に対する悪質な誹謗・中傷を行った。この中でよく知られたものとしては「ツチの植民地化計画 (Tutsi colonization plan)」などがある。

ジェノサイドへ至るまでには、1990年以降の煽動的なメディアプロパガンダや民兵組織の結成、銃火器の供給、虐殺対象のリストアップなど、国家権力側による非常に周到な準備が行われていた。この国家権力側による準備と、対立や憎悪を煽られた民衆の協力によって、およそ12週間続いた期間のうち前半6週間に犠牲者の80%が殺害されるという、極めて早いペースで虐殺が行われた。

1994年4月7日に開始されたジェノサイドでは、ルワンダ軍やインテラハムウェ、インプザムガンビといったフツ民兵グループが、組織的行動として捕らえたツチを年齢や性別にかかわらず全て殺害した。
穏健派フツは裏切り者として真っ先に殺害された。
フツの市民は虐殺に協力することを強いられ、ツチの隣人を殺害するよう命令された。
この命令を拒んだものはフツの裏切り者として殺害された。
大半の国が首都キガリから自国民を避難させ、虐殺初期の時点で同国内の大使館を放棄した。
状況の悪化を受けて、国営ラジオのラジオ・ルワンダは人々に外出しないよう呼びかける一方で、フツ至上主義者の所有するミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンはツチと穏健派フツに対する辛辣なプロパガンダ放送を繰り返した。
国内各地の道路数百箇所では障害物が積み上げられ、民兵による検問所が構築された。大々的にジェノサイドが勃発した4月7日にキガリ内にいたダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーは保護を求めて逃げ込んでくるツチを保護したが、エスカレートするフツの攻撃を止めることができなかった。

ジェノサイドは速やかにルワンダ全土へ広がった。虐殺の過程で一番初めに組織的に行動したのは、国内北西部に位置するギセニ県(現西部州)の中心都市、ギセニの市長であった。市長は4月6日の夜の時点で武器の配布を目的とした会合を行い、ツチを殺すために民兵を送り出した。ギセニは暗殺されたハビャリマナ大統領の出身地であるほかアカズの拠点地域でもあり、さらに南部地域がルワンダ愛国戦線に占領されたことから数千人のフツが国内避難民として流れ込んでいたため、反ツチ感情の特に激しい土地となっていた。なお、4月6日から数日後にはブタレ県内を除いた国内のほぼ全ての都市で、キガリと同様のツチや穏健派フツ殺害を目的とした組織化が行われた。

犠牲者の大半は自身の住んでいた村や町で殺害され、直接手を下したのは多くの場合隣人や同じ村の住人であった。なお、民兵組織の一部メンバーにはライフルを殺害に利用した者もあったが、民兵は大半の場合マチェーテで犠牲者を叩き切ることで殺害を行った。犠牲者はしばしば町の教会や学校へ隠れているところを発見され、フツの武装集団がこれを虐殺した。一般の市民もツチや穏健派フツの隣人を殺すよう地元当局や政府後援ラジオから呼びかけを受け、これを拒んだ者がフツの裏切り者として頻繁に殺害された。『虐殺へ参加するか、自身を虐殺されるかのいずれか』の状況であったという。

ラジオやヤギ、強姦の対象となる若い娘といったツチの"資産"は、虐殺参加者のために事前にリストアップされており、殺害する前後に略奪もしばしば行われた。また、キガリ近郊の女性議員の1人は、ツチの首1つにつき50ルワンダフランを報酬として与えて、ツチの殺害を奨励していたという。各地に構築された民兵組織による検問では、ツチツチのような外見を持つものが片っ端から捕らえられて虐殺された。多くの場合で、犠牲者は殺害される前に略奪され、性的攻撃を受け、強姦され、拷問を受けた。川や湖は虐殺された死体で溢れ、または道端に積み上げたり、殺害現場に放置された。また、1992年にはフツ至上主義の政治家であったレオン・ムゲセラはツチの排斥を訴え、ツチをニャバロンゴ川を通じてエチオピアへ送り返すよう主張したが、1994年4月にこの川は虐殺されたツチの死体で溢れ、下流のヴィクトリア湖の湖岸へ幾万もの遺体が流れ着いている。

ルワンダ政府の推定によれば、84%のフツ、15%のツチ、1%のトゥワから構成された730万人の人口のうち、117万4000人が約100日間のジェノサイドで殺害されたという。これは、一日あたり1万人が、一時間あたり400人が、1分あたり7人が殺害されたに等しい数字である。また、ジェノサイド終了後に生存が確認されたツチは15万人であったという。また、夫や家族を殺害され寡婦となった女性の多くが強姦の被害を受けており、その多くは現在HIVに感染していることが明らかとなっている。さらに、数多くの孤児や寡婦が一家の稼ぎ手を失ったために極貧の生活を送っており、売春で生計を立てざるを得ない女性も存在している。

--------------------強姦

1998年、ルワンダ国際戦犯法廷は裁判の席で「性的暴行はツチの民族グループを破壊する上で欠かせない要素であり、強姦は組織的かつツチの女性に対してのみ行われたことから、この行為がジェノサイドとして明確な目的を持って行われたことが明らかである」との判断が下された。つまり、ルワンダにおける戦時下の強姦をジェノサイドの構成要素の1つと見なされたのである。ルワンダ虐殺における強姦は、女性に対する残虐さの著しい度合いや、強姦が非常に一般的に行われるといったツチ女性に対する性的暴力が煽られた原因として、組織的プロパガンダの影響が他の紛争下の強姦と比較して際立っていると指摘されている。

2000年に行われたアフリカ統一機構主催のルワンダ国際賢人会議 (Organization of African Unity’s International Panel of Eminent Personalities on Rwanda) では、「我々は、ジェノサイドを生き残ったほとんどの女性が、強姦もしくは他の性的暴力の被害に遭った、あるいはその性的被害によって深く悩まされたことを確信できる」との結論が出された。強姦の犠牲者の大半はツチ女性であり、未成年の少女から高齢の女性まで幅広く被害に遭ったが、一方で男性に対する強姦はほとんどなかった。

--------------------虐殺の余波

虐殺に「加担あるいは傍観」した約200万のフツが、殺害や家への放火といったツチによる報復を恐れてルワンダ国外へ脱出し、大部分がザイールで、一部がブルンジ、タンザニア、ウガンダで難民となったが、難民キャンプの劣悪な環境により、コレラや赤痢といった伝染病が蔓延して数千人が死亡した。1994年に難民キャンプが結成されると、その後すぐに200以上のNGOが現地で活動を行い、1996年までの期間に10億ドル以上が難民支援に支出された。

ルワンダ虐殺下における強姦被害者らは、社会的孤立(強姦に遭うことは社会的汚名とされるため、強姦された妻から夫が去ったり、強姦された娘は結,婚の対象外とされたりした)や、望まぬ妊娠や出産(一部の女性は自身で堕胎を行った)、梅毒、淋病、HIV/AIDSといった性行為感染症への感染といった、長期に渡る甚大な被害を受けた。ルワンダ虐殺問題の特別報告官は、未成年の少女を含む25万から50万の女性が強姦され、2000人から5000人が妊娠させられたと推定している。ルワンダの再建にあたり大きな問題となっているのは、強姦や殺人、拷問を行った者と同じ村で、時には隣人として暮らすという事実である。個人個人が虐殺に関与したにせよしなかったにせよ、ジェノサイド直後のツチにとってフツを信頼することは非常に困難であった。

ルワンダのジェノサイドは、未成年のトラウマという形でも社会に甚大な影響を残すこととなった。ユニセフの調査によれば、ルワンダ虐殺当時、子供の6人中5人は流血沙汰を目撃したとされる。また、10代の若者約5000人が虐殺に関与した嫌疑で2001年まで拘留されていた。拘留による教育の欠如や、模範とすべき親世代との隔絶は、未成年に好ましくない影響を及ぼしたと考えられる。また、これらの未成年が家族の下に戻る際にはしばしば問題が生じる。家庭の経済的な問題やジェノサイドへの関与したことに対する恐怖から、多くの場合で少年らは家族から拒絶されるのである。

--------------------追悼施設

ルワンダでは1995年以降、海外からの援助を受けて全国各地でジェノサイドの記念施設が設立された。ルワンダでは毎年、4月7日からの一週間はルワンダ虐殺の追悼の週として、全国各地の施設で式典や慰霊祭が行われ、喪に服し、記憶し、反省し、学び、二度と虐殺を繰り返さないための誓いが立てられる。2004年、この追悼記念施設の中心となるキガリ虐殺記念センターがルワンダの首都キガリで開館した。

なお、これらの記念施設は、その政治的な目的性や様々な矛盾から非難を受けている。多くの記念施設では、ジェノサイドを否定したり平凡化することを防止するために数百人分の遺体や遺骨が展示されており、これらが大規模な暴力行為が行われたという具体的な証拠となっている。しかし、虐殺犠牲者の遺体を公開する行為は特に国内外からの非難を呼んでいるほか、この展示行為は"遺体は可能な限り迅速かつ目立たないように埋葬を行うべき"とするルワンダの伝統的な方針に反している、記念施設に埋葬されるのが専らツチのみでフツが排斥され差別されているなどの問題が存在している。また、フツもルワンダ内戦や難民化などにより多くの被害を受けたにもかかわらずほとんど省みられることがない点に関して、多くのフツが怒りを感じている。さらに、現在のルワンダ政府は、ルワンダ虐殺の記念館を開発協力資金の勧誘の手段として利用しているとの指摘もあるが、その一方で国際援助機関が虐殺記念館の設立や維持に援助を行うことで、1994年4月から7月までの消極的な姿勢をとったことに関して国際社会が感じる疚しさを埋め合わせているという面も存在している。

MONSTER(2.1) Hell Hole(ジンバブエの刑務所)

ジンバブエ。

失業率94%。
国民の30%がHIVに感染。
国民の平均寿命は36歳。
国を統べるモンスター。Robert Gabriel Mugabe

ジンバブエの刑務所は天国か地獄か。

ジンバブエの急激なインフレや、基本物資の不足から、刑務所内の囚人たちへの物資の供給が追いつかない。また、刑務官たちが、囚人用の食事をブラックマーケットに流している。衛生面でも、刑務所内は基本的に医療設備も悪く、囚人も収監前からコレラなどの病気を持っていたりする。ジンバブエの刑務所内では、囚人が栄養不足のため弱りすぎ、立つ事も食事を口に運ぶ事も困難な状況にある。「ジンバブエの刑務所にいること自体が拷問」なのだそうだ。
前野党政治家のロイ・ベネット氏は、1ヶ月間の収監中、食事は1日1度のとうもろこしの粥に塩水が配給されるだけだったと語った。氏の収監中に5人が死亡し、その遺体は1~2日は放置されていたという。

以下は南アフリカのテレビ局が放送した番組"Hell Hole"のキャプチャ(抜粋)。この番組では4ヶ月かけてジンバブエの刑務所内を内偵したという。
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teng jing

Author:teng jing
上海在住。公認会計士から経営戦略コンサルタントへ。

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